1995年 珠海市内の公道で開催された中国初の自動車レース BPR選手権 |
前回、書いたのが2021年9月22-24日。随分と時間が経ってしまった。その後も事件・事故、様々な問題があり、ゆっくりと書く機会を失ってしまった。
前回までのpostの要約は詰まるところ、
- いつまで貧しかった?
- いつから改革開放に切り替わった?
- 一人っ子政策で二人目を孕った妊婦が香港の海沿いを逃げて行き、中国側に捕まったあの映像は?
- それにしても、なぜ皆んな兄弟がいる?
と言う四点の疑問に集中される。
そして大きく誤解を与えた日本の〝戦後補償〟的なODA。先月末まで中国に対して支払っていたのだから恐れ入る。どこまでお人好しなのか?
ここの興味深い日本政府のステートメントがある。
この資料によると日本の中国に対するODAは1979年以降、昨年、すなわち2021年12月末まで行われ、その総額は3兆円以上を支払ったと言う。
詳しくは資料に書いてあるが、何度か名目や一部内容が書き換わってはいるものの、それらは単なるお題目に過ぎず、結局はせっせと払い続け、結果的に中国を肥え太らせ、面倒な国際情勢の形成に一役買ってしまったと言っても言い過ぎでは無いだろう。
それもこれも中国の〝私たち可哀想でしょ?〟の猿芝居に付き合った結果である。
先日、YouTube 円谷プロ アーカイブでウルトラマンを見ていた。ご存知の通り、初代ウルトラマンは1966年(昭和41年)から翌1967年(昭和42年)までの放送。強いて言うなら昭和20年に終結した太平洋戦争から数える事、21年目の世に出てきたスーパーヒーローである。時間の許す方はぜひ見て頂き、子供達が出てくるシーンを観て頂きたい。当時の日本の団地の様子が鮮明に描かれている。これが戦後21年目の日本の実際の姿である事は間違い無い事実だ。
*日本からだと動画が見れないと言う事で、同時期の写真をUPしておきます。
その1966年と言うと、勘の良い方はピピっと来るものがあると思う。そう、あの〝文化大革命〟が始まった年なのです。近代中国を考察する上で絶対に欠かす事が出来ない文化大革命は、このウルトラマン誕生の年に始まった。ウルトラマンから四代先のウルトラマンレオが1975年に終わりシリーズは一旦終了。東洋初、日本初のF1グランプリ、映画ラッシュの原材にもなったあの〝雨の富士のF1〟の開催が1976年10月。
文革の終了は1976-1977年と言われているので、日本が奇跡的な復興を遂げ、衣食住はある程度満ち足りて、娯楽やスポーツへと進化しているこの間、中国はずっと国、いや共産党の政治統制をやっていた訳です。
飢饉疫癘・天変地異なら同情の余地はあったとしても、政治闘争で自らの権力保持の為、国内の経済・産業・教育をこの様に荒廃させたその結果、貧乏国に成り下がったとしたら、それは同情をするのではなく〝自業自得〟と言って切り捨てて良いと考える。
ここで話しは時空を前後するが、今一度検証を要する事がある事をここに記す。1945年に戦争は終結した。これは歴史的な事実。その6年後、当時の中国国務院の総理であった周恩来は国内の産業育成を打ち出す。それが1951年だ。それから3年後の1954年から1956年にかけて、北京に最初の工業地区が作られる。ここで作られた会社の一つの河野太郎が役員を務める会社の合弁先である。
そしてここで中国共産党は致命的なミステイクを引き起こす。
それが1958年に毛沢東が直接指揮をとった〝大躍進政策〟である。
これは簡単に言うと【中国の産業や経済が15年以内に英国を追い超し、50年で米国を超す】と言う目標の下に進められた。
そこでまず〝鉄鋼〟からスタートした。
それが【土法煉鋼(tu fa lian gang)】(日本語では大製鉄・製鉄運動と言う場合もある)である。
土法煉鋼是发生在1958年底的一场失败的群众运动。在第二個五年計劃大跃进时期,中共中央政治局决定,鋼產量調整較1957年翻一番,提出“以鋼為綱”的口號,號召全民煉鋼。在农村,也修建了土法的炼钢炉,在田间炼钢铁。企圖以萬馬奔騰手段,達成農工生產突破。很多人把家里的锅子、铁器、鐵門把手、窗旁的鐵框等金属都捐献出来煉钢铁,但由於技術不合規格,是用土高爐,柴火煉,溫度不能達到,只是煉出大量的廢鐵,浪費無數寶貴資源,並對環境造成極大污染。
田畑の中、土で作った高炉を使い生活用品の中から集めた金属品を使い鉄を製作している様子。 |
訳文:土法煉鋼は1958年の暮れに起こった人民を巻き込んだ大きな政治的失策の一つ。第二期の五年計画(大躍進時期)の柱の一つで、中央政府の決定として鉄鋼の生産量を前年(1957年)比で二倍にする事を目標に掲げた。『以鋼為綱(鉄を産業の基軸にする)』を合言葉に、全人民で鉄を作る政策を打ち出す。農村で昔ながらの鉄の高炉を作り、田んぼの中で製造設備を作った。全人民を動員し、その勢いで農業生産を打ち破る事業を打ち立てようと号令をかけた。全人民は家のある鍋釜、ドアノブ、窓枠などありとあらゆる金属を集めて材料としたが、技術が伴わない事、高炉は土で作った高炉であり火力は薪。結局、熱が足りず出来上がったものは使い物にならない屑鉄ができた。資源は全て無駄になったばかりか、環境汚染まで発生させてしまった。
各村の首長は中央政府に認められる為、虚偽の生産報告が相次ぎ、前年を下回る事ができない為、更に翌年は水増しした数字を報告する事に明け暮れた。つまり近年崩壊した、都市開発の不動産事業と各省の関係は昨日今日の話しではなく、この国のDNAとして存在していた証拠である。
この屑鉄生産と生活用品の差し出しは人民を困窮の底へと追い込み、農村部で多くの餓死者を発生させる事になり、人が人を食べる食人行為が横行する事になる。この1958年から1965年までの期間、餓死の死者数は中国共産党の資料で4,500万人を超え、他の学者のデータでは7,000万人余とするデータもある。そしてこの大躍進政策が終わった翌年、毛沢東は文化大革命に舵を切る。
戦後の初期段階で中国を指導したのは当時のソ連だった。しかしその方針が気に入らず、両国は袂を分かち合う。そこからは中国独自の努力をしたが結果として〝形にならなかった〟のは事実だろう。それから10年の間の大躍進政策での大失敗。その翌年(1966年)からの文化大革命。
日本が大躍進した20年間の間、勝手な論理を振りかざし国を完全にダメにしたそのどこに〝支援をしなければならない〟理由があるのか、私には理解できない。
勝手に相手を気に入らないと指導者を切り、自分たちで始め、上手くいかず癇癪を起こして国内をシッチャカメッチャカにした。
真実を突き詰めると、中国の歴史とは、ただそれだけの話しではないか?
繰り返すが、この〝大躍進政策〟の間に起こった出来事。現代の中国の不動産バブルとダブって見えるのは私だけか?
そんな1978年、この様な混乱と疲弊しきった中国から鄧小平が登場し、世界各国ともそこに大いに期待したのは理解できる。日本はその翌年(1979年)からODAを開始している事からも、それらが汲み取れる。
また世界情勢から考えても当時は冷戦真っ只中。東側の国と少しでも良い関係を結び、穏やかな方向に持っていきたいと思ったとしても不思議では無い。
日本の産業の協力としては初期段階でまず繊維業が中国へ進出した。それは国の経済発展の方程式であり、戦後、日本の復興の一旦を繊維(紡績)業が担ったのと、方程式は同じである。
一方の工業系は二の足を踏んだ。材料や技術があまりにも不足していたし、第一、貿易のルールが複雑(確立していなかった)事も影響した。
この〝政治的混乱〟が原因で中国は戦後の復興が遅れ、お隣の日本がマイカーだ!ウルトラマンだ!いよいよF1だ!と、世界に類を見ない戦後復興を成し遂げたところ、そこにすがる状況になったのは疑いの無い事実である。そもそも日本人は確かに〝勤勉〟で〝真面目に頑張った〟事は歴史が証明している。
1980年ごろの記憶である。TBS系だったと思うが中国の一般家庭を取材した特番をやっていた。なぜ記憶しているか?と言うと母が興奮しながら観ていたからだ。『日本の2-30年前の生活と一緒だよ!』何度もそう言っていたので妙に記憶がある。
この中国可哀想構想に日本のメディア一役買った事も事実ではないか?と思う。
ここからは自分の主観を柱として書くが、この1978年12月に打ち出された【改革開放路線】の錦の旗による市場経済への移行は、世界の先進国(含む日本)にとってこの上ない投資の機会となった。この政策はその後の中国の経済の柱となるのであるが、どうもこの初期段階から日本はしくじっている形跡を感じる事がある。
それは上記にリンクを貼った日本の対中国のODAのあり方に問題があると感じる。『困った国を助けましょう』的な意味合いで始めたはずが、どこかで〝戦争責任による賠償〟へと話しがすり替わっている空気感がある。それは日本国内にいる売国政治家や関係者の影響が大きいと言える。
この時、日本政府はその支援の意義や意味、理由を日本国内のみならず、相手国である中国にもきちんとPRをすると言う施策を取らなかった。この事が後生、大きく悪影響を及ぼすのである。
昨年の12月末まで日本が中国に経済援助を行なっていたと言う事実を知る中国人はいるのか?と思う。私はいないと断言する。またその様な事実を隠した教育をこの数十年と中国は、し続けてきた。
ところで昨年末まで援助していた事業の項目をご存知ですか?
外務省の資料を引用します。
人口増加が進む中国内陸部。その奥深くに位置する内モンゴル自治区には、ゴビ砂漠、オルドス砂漠など広大な砂漠が広がっている。ここはかつて、森と草原の豊かな大地であった。それが約300年くらい前から砂漠化が進み、ひいては貧困を生み、貧困ゆえの無謀な農法がまた砂漠化を進行させる、と悪循環を生んでいる。
ここで行われる農法とは、緑の保全をほとんどしない疎放な農耕と、草を食べ尽くすほどの家畜の過放牧の繰り返しである。これではいくら広大な土地とはいえ、たまらない。砂漠化は急速な勢いで進んでいる。これは中国だけではなく、もはや地球全体の問題である。グローバル・イッシューに積極的に対応しようと考える日本政府は、ODA予算からいくつかの民間ボランティア団体にNGO事業補助金を交付、植林など緑化活動を始めた。
環境を変えるには、まず、植林の大切さを現地の牧民にわかってもらう必要がある。現地政府と専門家、牧民とで徹底的に話し合い、意思統一を図った後、綿密な調査を重ねて、緑化の方法を決めた。すなわち、まず防風林を作ってからその内側を開墾して、牧草、果樹、農作物を栽培するという計画だ。環境保全とアグロフォレストリー(森林農業経営)の両立を行うことで、地元牧民の生活を向上させようというのである。
さて、防風林の植林だ。日本からは学生や企業の管理職、シルバー世代まで25名の“植林協力隊”が駆け付けた。中国側は技術者や小中学生から大人までの牧民らが実行部隊。両者は共同で「開溝造林」という植林技術にしたがって行った。ブルドーザーでまず整地、そこに1mくらいの溝を何列も掘ったところに木を植える、という現地式だ。 植えたのは1万本のポプラである。もともと草原地帯だったところなので、今でもある程度掘ると、木が育つには十分な水分が得られる。現地にぴったりの方式だ。
植林は、回を重ねるごとに地元牧民の協力を得るようになり、日本の協力隊が到着するたびに伝統芸能の「安代(あんたい)の舞」で出迎えてくれるようになった。そして、その舞を日本人に教えてくれるのである。単なる国際協力だけではない、文化交流イベントだ。そして、日本と現地の人々とを融和させてくれる大切なかけ橋である。中国とはいえ、現地の公用語がモンゴル語であり、厳しい自然とも向き合わねばならない。厳しい壁を両国とも乗り越えようとしているかのようだった。
舞を見ながら、現地技術者は満足げな表情で日本側隊長にこう語った。「もとから中国にあった方法を、日本からの資金と機材で実行できた。日本の支援に感謝する」 こうして、95年末までの7回、360haの土地に合計約42万本の木を植林したのである。
次は農作物の栽培だ。防風林の内側に、95年に水稲、小麦、牧草を栽培してみたところ、地元牧民が自給するには十分の作物を得ることができた。現地行政府と日本側協力団体は、計画実現に確かな手応えを感じたのであった。
最近行った現地牧民へのアンケートでは、全員が土地への自主投資を考え、半数以上が家畜を増やす意思があることがわかった。緑を再生することが大きな利益をもたらすと、彼等自身が認識し始めた証しである。
現在は、こうした森の再生をさらに拡大して地域を広げ、日本の専門家を加えた大掛かりなものにしようと、中国政府と日本政府、民間団体との間で協議が行われつつある。
国際協力が最終地点とする自助努力。日本の市民を交えてその意義を根付かせた功績は大きい。
何を言わんや!と言いたい。
砂漠化させているのは中国政府自身であり、その肝心のオルドスに至ってはサーキットを作り都市を建設し、今は立派なゴーストタウンとなっている。つまり昨年末まで支払ったカネは〝綺麗さっぱりドブに捨てられた〟のである。
このWSJの記事を読んだら一目瞭然でしょ?
中国経済を悩ませ続ける「ゴーストタウン」
負債が増える一方で、高層マンションが並ぶ新都市はほぼ空っぽ
10年前、オルドス市は豊富な石炭埋蔵量に支えられた中国有数の豊かな都市だった。市当局は不毛な砂漠の地を都市に変えようと、道路などのインフラに多額の投資を行った。しかし石炭需要の減退で市の年間成長率は2008年以降、3分の2以上低下した。不動産価格も急落し、市の負債は予算の約250%にまで膨らんだ。
砂漠を緑化すると言う名目の政府資金援助は、無駄な不動産開発に使われて、今はゴミとなって捨てられたとさ。
この本文にある〝インフラに多額の投資を行なった〟と。
誰のカネ?
結論を言う。
〝いつまで貧しかった?〟
その答えは実は今でも貧しいのである。
ではなぜ金がある?
〝欧米や日本の支援金や投資があったから〟であると結論づける。それが証拠にそれらの支援が下がれば下がるほど、中国国内の金が無くなっている。そしてとうとう、担保・証拠金をいくらでも誤魔化せる〝デジタル人民元〟への鞍替えだ。
これに関してはG7の首脳は〝テキトーに発行する通貨をやらかす〟として、早くから警戒を強めている。
私はこの〝デジタル人民元〟は【現代版 大躍進政策】であると結論づける。
中国はいつまでが貧しく、いつからカネを持つようになったと言う明確な線引きが無く、各国からの支援金でインフラを整備し、経済大国になってからも貧乏をアピール。
その一方で、支援金をベースに通貨の発行を増やし、その金で言う事を聞く国へ支援。子分を作っていった。支援金で他国を支援し、軍備を増やすというのを繰り返し行なってきた。
ここに興味深い文献をリンクしておきます。
•2008年5月7日、日本を公式訪問した胡錦濤国家主席と福田康夫総理(肩書きはいずれも当時)は、「戦略的互恵関係」の包括的推進に関する日中共同声明に署名し、日中関係が両国のいずれにとっても最も重要な二国間関係の一つであり、今や日中両国が、アジア太平洋地域及び世界の平和、安定、発展に対し大きな影響力を有し、厳粛な責任を負っているとの認識で一致した。
•しかし、その半年後の同年12月8日、中国公船(中国政府に所属する船舶)2隻が突如として尖閣諸島周辺の我が国領海内に初めて侵入し、度重なる海上保安庁巡視船からの退去要求及び外交ルートを通じた抗議にもかかわらず、同日夕刻までの約9時間にわたり我が国領海内を徘徊・漂泊する事案が発生。中国公船が我が国の主権を侵害する明確な意図をもって航行し、実力によって現状変更を試みるという、尖閣諸島をめぐり従来には見られなかった中国の新たな姿勢が明らかになった。
つまり尖閣諸島への中国の侵入は2008年12月8日がその起源という事が読み取れる。
上記のODAに関する外務省のリポートから抜粋する。
一方,経済・技術も含め,様々な面で大きく変化を遂げた中国に対するODAによる開発支援は,既に一定の役割を果たしました。このため,2006年の一般無償資金協力終了及び2007年の円借款の新規供与終了以降,日本国民の生活に直接影響する越境公害,感染症等協力の必要性が真に認められる分野における技術協力,草の根・人間の安全保障無償資金協力などのごく限られたものを実施してきました。特に,技術協力については,日中双方が適切に費用を負担する方法も実施してきました。
この日本への領海侵犯が発生する前年、日本国は中国へのODAの主だった部分を終了したの(細かなものは昨年末まで続きていたが)。
つまり〝カネをくれなくなった日本に対してどうやったら嫌がらせができるか?〟を考えた結果としての領海侵犯ではないか?と考えられる。
そして下記へ続く。
2018年10月25から27日,安倍総理による中国訪問の際,日中両国が世界第2・3位の経済大国となった今,我が国が中国を一方的に支援するのではなく,日中両国が対等なパートナーとして,共に肩を並べて地域や国際社会に貢献する時代になったとの認識の下,対中ODAを終了させるとともに,開発分野における対話や人材交流等の新たな次元の日中協力を推進することを発表しました。この発表を受けて,対中ODAは2018年度をもって新規採択を終了し,すでに採択済の複数年度の継続案件については,2021年度末をもって全て終了することになります。
1 領海・EEZを守る
上記は2018年の海上保安庁のリポートである。安倍前総理の一連の中国への対応と、中国の尖閣諸島への領海侵犯が非常に被っている様に見えるのですがね。
この安倍前総理の方針打ち出しの翌年には過去最大の領海侵犯が発生しています。
こうなると分かりやすいですよね?
要はみかじめ料なんですよ。
カネをくれているウチは友好。くれなくなったら、くれるまで嫌がらせを続ける。逆に言うとこれしかネタがないんです。
今回のpostはこの辺でお開きにしますが、そろそろ中国の本質が見えてきたでしょ?これを読んで恐らくスッキリ感より、どよ〜ん感の方が強くなったとお見受けしますが、以後、タイミングを見て〝その3〟〝その4〟へと続きます。